赤毛のアンの作者 L.M.モンゴメリ | 赤毛のアン 出版100周年

赤毛のアンの作者

 「赤毛のアン」を書いたのは、L.M.モンゴメリです。
 カナダではじめて小説で生計を立てた女流作家といわれている
 モンゴメリについてご紹介しましょう。

L.M.モンゴメリ 1874.11.30〜1942.4.24.

ルーシー・モード・モンゴメリは、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれました。父はヒュー・ジョン・モンゴメリ、母はクララ・ウールナー・モンゴメリ。生後21ヶ月のときに、母が結核で亡くなると、父はカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュに住む母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられました。 1880年には父と継母と暮らすためにサスカチェワン州のプリンスアルバートに行きましたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻りました。1891年には、処女作「マルコ・ポーロ号の遭難」が地方紙に掲載されました。

1893年、キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学します。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得しました。1895年〜1896年には、ノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジ大学で文学を学びました。

島にあるさまざまな学校で教えた後、1898年に祖父を亡くし、祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻ります。1901年にハリファックスの新聞社、デイリー・エコーに勤めましたが、1902年にはキャベンディッシュに戻り、郵便局の仕事をしながら祖母の世話をしました。

少女時代の日記や書き留めていたメモを元にして、「赤毛のアン」を書き始めたのは1905年のこと。農場の仕事や家事の合間に書いた「赤毛のアン」ですが、はじめはどの出版社からも断られました。3年後の1908年、「赤毛のアン」はボストンのペイジ社によって出版されます。「アン」は世界的なベストセラーになり、大成功を収めました。

1911年に祖母が亡くなると、5年前から婚約していた長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、夫の赴任地であるオンタリオ州
リースクデールに移り住みました。

牧師夫人として地域の奉仕活動などを献身的にこなす中、長男チェスター・キャメロン(1912-1964)の出産、次男ヒュー・アレクサンダー(1914)の死産、三男(ユーアン)スチュアート(1915-1982)の出産とめまぐるしい日々を過ごします。そんな間もモンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書きました。1926年に一家はノーヴァルの教区、(現在のオンタリオ州ハルトン・ヒルズ)に移りました。

本がヒットしていく一方で、ルーシーの生活は苦労と疲労の連続でした。出版社相手の法廷闘争や親友の死、そして、夫のユーアンは結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発、生涯快癒する事はありませんでした。モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けましたが、晩年は家庭内外の問題で心労が重なり、彼女自身も神経を病んだといわれています。 1935年、夫が牧師を引退したのを機に、オンタリオ州トロント西部に引っ越し、購入した家に「旅路の果て」荘と名づけました。モンゴメリは同年、フランス芸術院会員となり、大英帝国勲位も受けています。モンゴメリは1942年にここで亡くなり、その亡骸は最愛の土地プリンス・エドワード島キャベンディッシュの共同墓地に埋葬されています。




モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンス・エドワード島大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしています。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著しました。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行されました。また、1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版しました。

L.M.モンゴメリ著作リスト

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